悔い改めるとは、自分の罪を自覚してこれを改める行為です。しかし、これを人間が自分の意志で行なうことはとても難しいのです。そのためには、イエス様の十字架の贖い、すなわち罪の赦しが、悔い改めに先立って、その人なりその民なりに働いていなければなりません。イエス様の聖霊が働くときに、人々は、個人としても民族としても、自分の罪を自覚してこれを悔い改めようという気持ちに導かれます。
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人間は、赦されてはじめて赦しを乞うようになるのです。
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「すべての言葉が語られた後に、なお語られていない唯一の言葉(the Word)が存在する。」今世紀の詩人T・S・エリオットがこう言いました〔『聖灰水曜日』Ⅴ〕。
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贖罪史観は、単に謝罪によって赦しを求めようとする「謝罪史観」ではありません。悔い改めのところでお話ししたように、「贖罪」とはこれを受ける者の罪が贖われることです。贖われて罪を赦された者は、過去の罪から自由になります。だから、贖罪は、より積極的な活動の根拠となるのです。
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「虐殺はなかった」「戦後は終わった」「日本はアジアを解放した」という狭い視野の歴史観からは、21世紀を創り出す日本の歴史観は生まれてきません。
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情報コロニアリズムです。現在ハードとソフトの両方で、情報の覇権をめぐって、世界の国々が激しい競争を繰り広げています。特にヨーロッパ連合、南北アメリカ、アジアの三つの地域で、21世紀の情報を誰が支配するのかをめぐって競い合っています。
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情報は、ものの見方、すなわち人間の価値観を左右する力を持っているからです。何が正しくて何が悪いのか? 情報を支配する者が、この価値観を決めることができるからです。
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21世紀のアジアでは、植民「地」時代が終わり、これに代わって、植民「知」時代が始まろうとしているのです。だから、今こそ日本は、世界に通用する日本の歴史観を持って、自分の価値観をアジアの国々や世界に確固として表明していかなければならない時に来ているのです。
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興味深いことに、教授は、アジアの中で日本だけを、他のどこにも所属しない単立の文明として分類していることです。この見方からすれば、日本は、世界でもアジアの中でも、孤立する運命にあることになります。日本は、近隣諸国とほとんど文化的なつながりを持たずに孤立していますから、日本に代わって、中国がこの地域の経済統合への形成を進めるであろう。その結果、事実上、中国系共同市場が誕生するというのが教授の予測です。
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日本は中国に従属し(日本は常に最強国に従属する)、その結果アジアの覇権は中国が握ると見ているようです。その場合、米中の間で文明の衝突が生じる可能性が高くなるというのが著者の見解です。
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およそ「事実」が先ず存在していて、これを認識するというのが、物事の半面であるとすれば、認識が事実を造り出していくというのも、もう一つの半面だからです。
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日本は、先に、欧米に対して軍事的挑戦を試みました。戦後には、欧米に経済的挑戦を挑みました。日本は、このような挑戦を、欧米の国家制度や産業技術を採り入れることによって行なったのです。今度は、価値観の挑戦、すなわち第三の文化的挑戦が、今始まろうとしています
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挑戦は、同じ土俵に立つときにのみ可能だからです。日本には、キリスト教のアジア化を達成して、欧米と非欧米とをその価値観において結ぶという重要な使命があります
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日本は、もはや中国の文化圏に所属することはできません。むしろ、異なる面があっても、アメリカをはじめとする欧米文化圏と基本的な価値観を共有するべきです。その結果日本が、アメリカの属国になることはありません。日本は、アメリカと提携しつつ、中国を牽制し、米中の衝突を回避し、アジアの平和を維持する道を探るべきです。こうすることで、日本のキリスト教は、欧米とアジアとを結び、かつ中国を民主化する役割を他のアジアのキリスト教圏と共に果たすことができるからです。
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本が、アメリカや欧米と価値観を共有すべき理由は、「個人としての人間の人格的な自由」こそ、イエス様のみ霊の価値観だからです。
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個人の救済や個人の運命を全面に出すキリスト教が、現在韓国に広がっています。ところがこれと同時に、世界の至るところで、宗教的な民族主義が、非宗教的な民族主義に代わって台頭しつつあります。こういう時には、宗教的寛容こそ、宗教の最も大事な要素となるのです。私は、この宗教的寛容の霊性こそ、これからの日本のキリスト教を特徴づけるものであると信じています。世界の文明が、どのような姿や様相を呈しても、イエス様のみ霊にあるこの価値観は、人間の歩むべき道として正しいからです。これこそ、今後の日本のキリスト教がとることができて、しかもとるべき最も正当な道であると私が信じる理由です