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2015年12月24日木曜日

一神教の神は寛容である

もし人間の本質が善と悪の両方であると人々が 信じるのならば、極端な非難は少なくなります。アジア人は人間の本質が善であると信 じているため、誰かが過ちを犯すと、その人間が悪いと考えるのが普通です。しかし、 正しいことも悪いことも行いうるという考えを前提とすれば、人々は過ちを犯した人 を遠ざけ責めるのではなく、正しい道を進むように助け合うことができるかもしれませ ん。
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日本で悪いことが起こると、必ず誰かが責めを負うこと になります。夜のニュースを見ると、あってはならないことが起きるとその問題点に関 する話と責任のありかを追及する話でいっぱいです。
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西欧の一神教の思想家は人間の本質についてもっと現実的な見方をします。
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日本で暮らして4年を経た今、私は人間の本質についての一神教的理解を新たに深め ることができました。儒教で想定する人間観よりも一神教の人間学のほうが健全で希望 があると思います。信心深い人々が人間には本質的に欠陥があることを信じると、互い に助け合い、問題の発生を防ぐような社会の仕組みを作ります。人々が誤りを許し問題 を克服して前に進むようにします。ところが、崇高な人間観を持ち、だれもが立派にや ることを想定している(現実には失敗もする)社会では、問題の発生を防止し誤りを正 す力が恥と非難によって制限されてしまいます。
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日本では「官」「民」ともに求めるものが大きく、完全さに対する強い期待がありま す。大きな過ちを犯してしまった人が面目を保つには自殺するしかないと考えることも あります。それでもなお、過ちは起こります。不正行為もよく見られます。人間の欲と 利己心が人間の善を歪めてしまうのです。日本人もアメリカ人と同様に弱く利己的で欲 深くても、私は意外だとは思いません。人間だからです。ところが、日本社会は許すの ではなく責める傾向があるので、人々は世をすねてしまいます。人間は完全ではないこ とは分かっているのですが、誰もが完全でなければならないと思っています。結局は悪 が繰り返されるのを見ることになりますが、治癒や再生の機会はほとんどありません。
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儒教で想定する人間観よりも一神教の人間学のほうが健全で希望 があると思います。信心深い人々が人間には本質的に欠陥があることを信じると、互い に助け合い、問題の発生を防ぐような社会の仕組みを作ります。
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信心深い人々が人間には本質的に欠陥があることを信じると、互い に助け合い、問題の発生を防ぐような社会の仕組みを作ります。人々が誤りを許し問題 を克服して前に進むようにします。ところが、崇高な人間観を持ち、だれもが立派にや ることを想定している(現実には失敗もする)社会では、問題の発生を防止し誤りを正 す力が恥と非難によって制限されてしまいます。
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プロテスタントやカトリック教徒、そしてユダヤ教徒も、宗教の 多様性を受け入れることは必要なだけでなく望ましいことでさえあるのだと考えるよう になりました。(一神教に深く根をおろしている)排他的な考え方が問題となっていま した。そして今、当初は実用的な必要性から擁護されていた多元性が、アメリカの一神 教信者の間で民主的な概念の中心的価値とみなされています。これは驚くべき情勢の変 化です。
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日本の一般的な宗教は、私には表面 的で娯楽のように思えます。宗教的信仰は、迷信的な魔力と自己中心的な願望、そして 市民による祝祭や祭りが混合したものです。倫理や道徳は共同体の習慣に根ざしていま す。
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日本の文化は言語によらない意思表示に対してた いへん敏感です。決まった身振り、庭園、書道、生け花、茶道、食品サンプル、さらに14 一神教学際研究 別冊 は、能から陶芸にいたるまで多くの芸術様式は、言葉を用いずに、あるいはほんの少し の言葉だけで表現しています。私はこれが気に入っています。というのも、宗教につい て「考える」以上のことをせざるを得なくなるからです。結局のところ、人生の宗教的 面について語るにはいかなる人間の言語も不十分だと考えています。日本で暮らすこと によって、この考えがより確かなものになりました。

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