最もお気に入りの内田さんのブログ
ウッドストック
(1991年頃?)
次は「映画について」。
これは神戸新聞に頼まれて書いたもの。長すぎるので、うんと短くして発表しましたが、よほどバカだと思われたらしく、それっきり原稿の注文がこなくなってしまいました。
『ウッドストック』という映画がある。フラワー・チルドレンとヒッピイ・ムーヴメントと古きよきロック・ミュージックの時代の遺物である。
くたびれた中年男たちが、夜中にウイスキーをのみながら、ひざをかかえてヘッドフォンで大音量にして聴くとき、あまりにもはやく過ぎ去ってしまった1970年代を回顧して、しくしく泣けてしまうような、よい映画である。
だが感傷にふけるときではないない。映画の話をしよう。
この映画を見てあらためて驚くのは、この巨大なロック・コンサートがまぎれもなく「宗教的」な儀礼であったことである。
そんなことはもう20年も前からうんざりするほど聞かされている、何をいまさら、とみなさんは思うであろう。私だってそんなことは分かっている。
私が興味をひかれたのは、この宗教儀礼の呪具が「ギター」であったという事実である。
この映画を見たひとたちがもっとも印象的な場面としてあげるのは、たいていアーヴィン・リーが神懸かり的なスピードで弾きまくった『アイム・ゴーイン・ホーム』と、ジミー・ヘンドリックスが、およそ弦の発し得る極限までギターを責めたてた『星条旗よ永遠なれ』である。個人的な好みをつけ加えれば、ピート・タウンゼントがギターを舞台でばらばらに打ち砕いたザ・フーと、弓なりに背をそらしてギターをかきならすカルロス・サンタナの恍惚の表情も、とてもよかった。
これらのパフォーマンスに共通するのは、いずれも「ギタリスト」が20万人のマスヒステリー状態の観客を前にして、ある種の「憑依状態」になってしまった、という点である。
こういうことが起こるのは、ギタリストというのが、ミュージシャンのなかでもとりわけ「もののけ」に取り憑かれやすい体質を備えているからである。そのシャーマン性がギタリストの特権の淵源でもある。
RCサクセションの仲井戸麗市くんというギタリストが前に何かのインタビューで話していたことがあるけれど、仲井戸くんにいわせると、日比谷野音で、夏の夕方、昼の熱気をさますような夕風が吹く中、ステージに出て「クイーーーーーン」と弦を鳴らすときのギタリストの快感は筆舌に尽くしがたいものであるそうだ。
私はギターなんか弾けないけれど、この陶酔感はかなりよく想像できる。おそらくそれは宗教的な「トランス」状態に近いものであろう。
それに比べると、ドラムやキイボードの演奏者が白目を剥いて陶酔しているという姿は想像しにくい。
たとえば、石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』の「ドラム合戦」とラルフ・マッチオの『クロスロード』の「ギター合戦」を見比べると(この映画を両方見ているという人はほとんどいないであろうが)ギタリストの技量というのが、テクニックの問題ではなく「憑依」能力であるということがよくわかる。
裕ちゃんはドラムの技術的な勝負でおのれに利がないと察知するや、ステイックを捨て「おいらはドラマー」と歌い出すという意表を衝く手で、一気に勝負を決める。
裕ちゃんはいっときも「裕ちゃん」であることをやめないし、彼が勝利するのは楽器を捨てて、自分の「個人的」魅力を観客にアピールするときである。
一方、ラルフ・マッチオはモーツアルトと伝説的なブルース・ギタリスト、ロバート・ジョンソンに同時に「憑依」され、彼個人の個性も技術も越えた神懸かり的な演奏をして勝負を制するのである。(「モーツアルトとブルース・ギタリストに同時に憑依された状態」というのがどういうものかに興味がある方はぜひこの映画をごらんください。)
ことほどさように、ギターというのは一種「非人称的」な楽器なのである。
どうもギター・プレイの神髄は、プレイヤーが「楽器の精霊」とでもいうべきものの訪れを受けて、「私が弦を弾いている」状態を去り、ついに「私をの身体を媒介にして弦がひとりでに鳴り出す」というような状態を成就することにあるように思われる。
ではいったいなぜ、とりわけギターという楽器において演奏者の憑依がひんぱんに起こるのであろうか。
これが本日の主題である。ながい「枕」であった。
考えてみれば、ギターというのは奇怪な楽器である。
木製の胴に金属や樹脂製の弦を張り、それを弾いて音を出すのである。調音はむずかしいし、衝撃にも、湿度にも、熱にも、弱い。よい音を出すためには指から血がでるほどの練習が必要である。
もっと安価で、丈夫で、音の狂いもないし、演奏も容易な電気楽器がさまざま揃っているというのに、いまだに音楽少年たちのギターへの偏愛に変化のきざしは見えない。これはかなり不思議なことだ。
さて、ここからが問題である。
「木部に弦を張り、それをはじいて音を出す」という原理的メカニズムにおいて、ギターはあるものに酷似している。それは何でしょう。
答は「弓」である。
実は「弓」は射手を高揚させ、トランスさせるような呪術的な力をもっているのである。では、なぜ弓がとりわけ呪術的な武具であったのか。
ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルは東北帝国大学で哲学を講じているとき、縁あって、希代の弓の名手阿波研造師範のもとで弓術の修行を始めた。大正年間のことである。
岩波文庫に収められているヘリゲルの『日本の弓術』には、彼が信じる近代西欧的な身体訓練方法と、師範の示す日本的「修行」の文化的落差のあいだでとまどうヘリゲルの姿が活写されている。
ヘリゲルは身体訓練というものは、とにもかくにも、身体を意識で完全に統御することをめざすものだと信じていた。意のままに身体を運用すること、身体を「道具」として正確に操作しうること、それが近代的な意味での身体訓練の理想であったからだ。
それに対して阿波師範はまず最初に、「あなたは射において、自分は何をしなければいけないかを考えてはなりません」と教える。
ヘリゲルはこれを聞いて仰天する。「もし『わたし』が射るのでなければ、いったい誰が射るのです」と彼は反問する。
師範はこう答える。
「『それ』が射るのです。」
ヘリゲルにはその教えの意味がさっぱり分からない。しかしそれでも射の訓練は続ける。そして試行錯誤の数年ののち、ある日、ヘリゲルがなにげなく放った一矢にむかって師範は深く一礼し、「いましがた『それ』が射ました」と告げる。歓喜する弟子をたしなめて師範は教える。「いまの射にあなたは何の責任もないのです。あの矢は熟した果実が落ちるようにあなたから放たれたからです。」
こうした経験をへて、ヘリゲルはある種の持続的で集中的な身体訓練ののち、身体は「わたし」の統御に属さない超常的な運動能力(師範が「それ」と呼ぶもの)を発動しうることを学び知る。
「それ」の威力が個人の技量をはるかに超えたものであることを示すために師範は一夜ヘリゲルを道場に招き、暗闇の中で的に向かって二矢を放ってみせる。ヘリゲルが的を見ると、はじめの矢は的の中央に的中し、第二の矢は、最初の矢を断ち割って的中していた。このような離れ業は個人的努力をいくら積み上げても決して達成できるものではない。弓に「神霊」が宿るときのみ、かかる「神懸かり」的なパフォーマンスは可能なのである。
弓に威霊が宿るという信仰はむろん阿波師範の独創ではない。古来、日本には弓矢に神霊が宿り、それが狩猟能力を飛躍的に高めるという信仰が存在した。民俗学者、国文学者である折口信夫によると、古代人は狩猟の能力をもたらす「さち」と呼ばれる神霊を信仰していた。「さち」が憑依した狩人は超人的な狩猟能力を発揮する。古語には「さつ弓」なる言葉があるが、これは「弓」そのものに「さち」が憑依するという思考があったことを示している、と折口は書いている。
弓弦が激しく唸るとき、古代人はそれを「さちなるたましいの発動」と聴いた。弓の震動音は、それがもたらすはずの、豊かな獲物の期待と不可分だったのである。
おそらく私たちの身体の太古的な層には弓弦のうなりを、畏怖と期待のまじった感情で聞いた古代人の記憶がいまだにわだかまっている。
木製の胴に弦を張り、それをはじいて震動音を発するという作動原理において、ギターは現代における弓である。それゆえギターは現代において、かつての弓の代わりとなる破魔除霊の呪具たりえるのである。
その震動とともに神霊が到来し、呪具を操作するものに憑依する。すると彼は超常的な技巧を発揮する。古代においてその技巧は豊かな獲物をもたらした。現代においては音楽マーケットにおけるマス・セールスをもたらすだろう。しかし、ギターの魅惑はそのような計量可能な価値で言い尽くされるものではない。
さきに例に挙げたジミー・ヘンドリックスの伝説的なギター・プレイは、楽器の演奏というよりはむしろシャーマンが呪具をあやつるのに似ている。彼は旋律やリズムを無視して、ひたすら弦を震動させること、その震動をあたう限り引き伸ばすことに固執した。(仲井戸麗市くんがギターの音をメロディではなく、「クイーーーーーーン」という震動音で擬音化したことを思い出してほしい。)
ジミー・ヘンドリックスは歯で弦をひいたことさえある。みなさんも自分でギターの弦を歯ではじいてみれば分かると思うが(別に試してみなくてもいいですよ)、あきらかに歯で弾いた方が、指で弾くより、震動はダイレクトの身体の内奥に伝わる。
『ウッド・ストック』でザ・フーのギタリスト、ピート・タウンゼントは演奏を終えたのち、ギターをステージで叩き割る。楽器がもとの形態をとどめぬ破片と化したあとも、電気的に増幅された弦のうなりだけは舞台に残る。
この場面は私たちにある種の戦慄を与える。それは呪具から解き放たれた異形の「なにものか」が、むきだしのまま出現してくるのを、私たちが恐怖と恍惚のうちにそのとき感知するからなのである。
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