2010年4月11日日曜日

田中均の論理と とほほ理論 

陰謀説は父権的だと思う。

以下 内田さんのブログより引用

経験的に熟知されていることであるが、私たちは自分が「無力」である事実を「自分が弱くて、バカであること」の結果であると考えようとしない。(だっていやじゃないですか。)だから、この「無力」を私よりはるかに強力なものによる「外部からの禁止」の結果だと解釈しようとする。
この「合法的な自己認識を外部から禁止する存在」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。
おのれが無力であるという事実から、ただちに「外部に私には理解できないロジックをもって世界を整序している強力な上位者がいる」という結論を導くことはできない。そこには論理的な「架橋」が必要だ。「父」とか「神」とか「鬼」とかいうのは、要するにそのような論理的な架橋機能のことである。
「強力な悪が存在し、それが『私』の自己実現や自己解放を阻害している」という話型は、それゆえ「父」権制社会に固有のものであり、「父」権制社会の再生産プロセスそのものである。このような話型に依存している限り、それがいかなるイデオロギー的な意匠をまとっていようとも、(マルクス主義であろうと、フェミニズムであろうと、自由主義史観であろうと)それは「父権制イデオロギー」であると私は思う。
私はこのような同型的イデオロギーの終わりのない反復にはもううんざりしている。
ここから逃れる道があるのかどうか、私には分からない。とりあえず私は「私は無力でバカであるが、それは私が無垢であるからではなく、また私の外部に『父』がいて私が力をもつことを禁止しているからでもなく、単に私が無力でバカであるからである」という情けない自己認識から出発しようと思っている。
弱さを根拠にしつつ、それを決してパセティックな語法では語らないという決意を私は「とほほ」と擬音化する。
「とほほ主義」はイデオロギーではない。それはイデオロギーが腰砕けになった瞬間の情けない浮遊感のうちに、軽いめまいに似たものを感じてしまう困った精神のあり方のことである。

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