2014年4月24日木曜日

日本・メキシコパートナーシップまとめ 布石を打ったの誰か?ディアス・コバルビアスの日本旅行記

2003年には、日本とメキシコが新時代に向けた「戦略的パートナーシップ」を構築していくことに合意。以来両国は、民主主義や人権尊重、自由経済など共通の価値観を共有する

日墨EPAの発効と効果

両国の貿易総額は、発効1年目の2005年度に38.4%の増加、2年目は76.3%増、3年目は85.6%増と、著しく増加。日本の自動車メーカーや自動車部品メーカーも、日墨EPAの発効前後にメキシコに新工場や販売会社を設立するなど、メキシコに対する新規や追加の投資が行われました。

日墨EPA発効(2005年4月)後の貿易・投資動向

先進国の仲間入り 現在のメキシコは、世界14位のGDPを有する国で、1992年にはNAFTA締結、93年APEC加盟、94年OECD加盟と、着実に先進国への仲間入りを始めています。G8サミットなどの主要先進国の国際会議においても、メキシコはアウトリーチ会合(拡大会合)の常連の参加国であり、国際社会における存在感を増しています。他方、国内では、南北の地域間格差や貧富の格差が拡大し、また、麻薬や治安問題などの課題を抱えており、貧困撲滅や雇用の創出等の対策が求められています。

中南米諸国との関係 2006年に就任したカルデロン大統領は、従来通り米国との関係を最重視する政策を踏襲しながらも、中南米諸国との関係を再構築・強化する方針を表明し、各国との対話を実施しています。また、開発協力の分野でも「メソ・アメリカ・イニシアティブ計画」(メキシコ南東部から中米諸国の開発を目指す計画)の推進など、中米の地域開発を引き続き支援する姿勢を示しています。我が国との間でも、2003年に「日本メキシコ・パートナーシップ・プログラム(JMPP)」を締結し、以来協力して、中南米諸国に対し環境、防災などの分野で技術支援を行っています。

歴史的関係と平等な通商条約

■金星観測隊が開いた外交関係樹立への道 1874年は、太陽、金星、地球が一直線に並ぶ130年に一度の天文学上重要な年でしたが、これが日本とメキシコの国交樹立にもつながりました。すなわち、この年、先進国は国の威信をかけて世界各地に観測隊を送り出しましたが、開国後間もない日本にもアメリカ、フランス、メキシコが観測隊を送ったのでした。このときメキシコ観測団の団長だったコバルビアスは、後に「日本旅行記」という本を執筆するほど、日本に魅せられます。本国に戻り、日本との国交樹立を強く政府に提言し、これが、1888年の日墨修好通商航海条約の布石となったのです。コバルビアスは土木省の次官だったそうです。

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日本悲願の平等条約 この通商条約は、明治政府の悲願であった日本がアジア以外の国との間で最初に締結した平等な条約でした。それまで不平等条約を強いられてきた欧米列強との関係を改め、平等な条約を締結する原動力となりました。また、1897年には榎本移民団35名が、メキシコ南部のチアパス州に入植しましたが、これが中南米への最初の組織的移住です。1614年には支倉常長の遣欧使節団がメキシコのアカプルコに到着し、約180名の団員のうち多くが1年間メキシコに暮らし、大半は帰国しますが、一部はそのままメキシコに残ったといわれています。昔から、メキシコは日本人にとって親しみやすい土地柄だったといえそうです。
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長年にわたる「日墨交流計画」

こうした親密な日墨関係には、地道で長い交流の実績があります。「日墨交流計画」は、当時のエチェベリア大統領が発案した、両国間で留学生や研修生による交流を促進するプログラムです。1971年に第1回研修生がメキシコに派遣されてから37年間、およそ2000名の日本人がメキシコに留学しました。現在、日本の大学でメキシコに関連する学問の第一人者といわれる方々や、経済界の重鎮がこのプログラムでメキシコに留学しました。日本を訪れたメキシコ人の多くは技術者で、日本の物づくりの技術や品質管理などを日本で学び、メキシコの発展に貢献しています。この事業は、幅広い分野で、両国の人材育成と、日墨友好の絆の深化に大きく貢献をしています。こうした交流が今後も両国の繁栄につながっていくことを期待します。


駐日メキシコ大使館 学術交流、教育、国際協力部(山崎)宛(電話:03-3581-1131)


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メキシコ 酒瓶の400周年記念ラベル 見積とデザインの方向 ハローチョなラバンバ

1970年代、メキシコ市で民族音楽を研究・演奏していた若い音楽家がベラクルスで当時、純粋なハローチョ、つまりリッチー・バレンスやロス・ロボス、あるいはトニー・ロペスらによって改ざんされたお陰で世界的なヒット曲となった「ラ・バンバ」ではなく、生のままのハローチョで歌っていた老音楽家アルカディオ・イダルゴ(故人)を招いて録音したのがモノ・ブランコ結成の由来


セレーナの日本デビュー作、そして遺作となった『ドリーミング・オブ・ユー』は日本ではとっくに廃盤になってしまったがラテン社会ではまだ生きている。1995年7月、セレーナの死から約4ヵ月後の7月18日に全米で発売されると、最初の週だけで33万枚以上を売った。当時の発売第1週のセールス記録はマライア・キャリーの『ミュージック・ボックス』で17万4千枚であったから一挙に倍の新記録を樹てたのだ。
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▼見積① 日本酒ラベル

【仕様】
用紙   :アートタック73
糊質   :強粘着糊
サイズ  :155×140(㎜)
印刷   :カラー
後加工  :裏スリット入り断裁仕上げ

【枚数】  100枚
本体   :    43,100
配送料  :        0
【消費税8%】    3,448
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合計金額      ¥46,548



▼見積② 日本酒ラベル

【仕様】
用紙   :アートタック73
糊質   :強粘着糊
サイズ  :155×140(㎜)
印刷   :カラー
後加工  :裏スリット入り断裁仕上げ

【枚数】  1,000枚
本体   :    49,700
配送料  :        0
【消費税8%】    3,976
==============================
合計金額      ¥53,676


▼見積③ 日本酒ラベル

【仕様】
用紙   :アートタック73
糊質   :強粘着糊
サイズ  :155×140(㎜)
印刷   :特色4
後加工  :裏スリット入り断裁仕上げ

【枚数】  100枚
本体   :    48,300
配送料  :        0
【消費税8%】    3,864
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合計金額      ¥52,164


▼見積④ 日本酒ラベル

【仕様】
用紙   :アートタック73
糊質   :強粘着糊
サイズ  :155×140(㎜)
印刷   :特色4
後加工  :裏スリット入り断裁仕上げ

【枚数】  1,000枚
本体   :    54,900
配送料  :        0
【消費税8%】    4,392
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合計金額      ¥59,292

メキシコ市中の中心にある大衆音楽劇場のブランキータ劇場のフロアの壁には現在もペレス・プラード楽団の日本公演のポスターが麗々しく飾られているぐらいだ。日本には1956年以来、17回来日公演を行なっている。25日のコンサートの模様を伝えた新聞は、全盛期のペレス・プラードを紹介するなかで、外国での録音活動を紹介し、なかでも日本でのユニークな作品がメキシコでも注目されたことを特筆している。当時、日本の歌曲、民謡を巧みにマンボにアレンジ、ジャケット・イメージも工夫を凝らしたアルバムは日本でもベストセラーになった。
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10月上旬、米国の著名な音楽誌『ビルボード』がノルティーニョ・グループとして長年、最高の人気を 持続してきたロス・ティグレス・デル・ノルテをメキシコ音楽の牽引者とであると同時に、その社会的な貢 献に対して表彰することを決定した。
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米国カルフォニア州のサン・ホセ市で1968年、アコーディオン弾きでトップボイスのホルヘ・エルナ ンデスをリーダーに従兄弟たちと組んで結成されたロス・ティグレス。すでに45年という長い活動をして きたが、人気がどうのこうというレベルを超え、いまやメキシコ民衆音楽の権威になった観がある。
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メキシコの都会派、あるいはインテリ層に熱心なファンが多い歌手だ。正直言って、メキシコのポップス好きという若者でもエレーナの存在を知らない者は多いはずだ。無論、日本ではまず無名。だから、「エレーナ来日公演、なんで」というのが筆者の印象だが、思いがけない出会いと率直に感謝した。
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サッカー、野球、ボクシング、プロレス スポーツ以外でも文化、食と素晴らしい国。
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フランシスコビリャとかエミリアーノサバタとかラサロカルデナスとか言ってやれよ。 あそこに在ってアメリカと対峙してきた歴史はグレートだぜ。
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石油資源が豊富で埋蔵量もあって、カリブ海は綺麗で有数のダイビングスポットがあって、GDPや人口も上昇傾向で、アステカ文明がかつてあって、タコス、テキーラなどあって。日本とはFTA結んで、豚肉などよく輸入されていて、過去は日本と日墨修好通商条約を結んでいて、安土桃山から江戸初期に交流あってメキシコの難破船救助が縁で、慶長の使節団がメキシコ経由でローマに行って。スポーツは野球サッカーの強豪でボクシングやプロレスルチャなど盛んで。 まあ前に調べたんだけど、いい印象よ
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最近になって、メキシコ大使館が一番いい場所に建ってて、開国後初めて平等条約結んでくれた国だと知った。 経緯は、開国後、なんか天体観測するのにその年は日本が一番の場所だったらしい。 不平等条約を結んだ各国が我先に良い場所をとろうとした。 メキシコ観測隊もダメ元で日本に交渉したら意外にもOK。お礼に日本人も観測隊に参加させたら、その勤勉さにびっくり メキシコに帰国後、日本は良いよ!日本と平等条約しよう!ということになったらしい
屋須弘平は、幕末から明治へ移り変わる時代の流れのなか、故郷の岩手県藤沢町を離れ、1874年横浜で金星観測を行ったメキシコ科学調査隊との出会いがきっかけで、メキシコへ渡り、そして終の棲家となった中米の国グアテマラで写真館を開きました。その屋須弘平の写真作品とその遺品を紹介することで、130年という時間の中でラテンアメリカの土塊となって忘れ去られた移住者の足跡を21世紀に繋げたいと考えます。

右手に持つのは勝利と栄光のシンボルである月桂樹の冠。

左手には、抑圧からの解放を表す、ちぎれた鎖。




















メキシコへのワイン輸出入手続きチャート