最もお気に入りの内田さんのブログ
ウッドストック
(1991年頃?)
次は「映画について」。
これは神戸新聞に頼まれて書いたもの。長すぎるので、うんと短くして発表しましたが、よほどバカだと思われたらしく、それっきり原稿の注文がこなくなってしまいました。
『ウッドストック』という映画がある。フラワー・チルドレンとヒッピイ・ムーヴメントと古きよきロック・ミュージックの時代の遺物である。
くたびれた中年男たちが、夜中にウイスキーをのみながら、ひざをかかえてヘッドフォンで大音量にして聴くとき、あまりにもはやく過ぎ去ってしまった1970年代を回顧して、しくしく泣けてしまうような、よい映画である。
だが感傷にふけるときではないない。映画の話をしよう。
この映画を見てあらためて驚くのは、この巨大なロック・コンサートがまぎれもなく「宗教的」な儀礼であったことである。
そんなことはもう20年も前からうんざりするほど聞かされている、何をいまさら、とみなさんは思うであろう。私だってそんなことは分かっている。
私が興味をひかれたのは、この宗教儀礼の呪具が「ギター」であったという事実である。
この映画を見たひとたちがもっとも印象的な場面としてあげるのは、たいていアーヴィン・リーが神懸かり的なスピードで弾きまくった『アイム・ゴーイン・ホーム』と、ジミー・ヘンドリックスが、およそ弦の発し得る極限までギターを責めたてた『星条旗よ永遠なれ』である。個人的な好みをつけ加えれば、ピート・タウンゼントがギターを舞台でばらばらに打ち砕いたザ・フーと、弓なりに背をそらしてギターをかきならすカルロス・サンタナの恍惚の表情も、とてもよかった。
これらのパフォーマンスに共通するのは、いずれも「ギタリスト」が20万人のマスヒステリー状態の観客を前にして、ある種の「憑依状態」になってしまった、という点である。
こういうことが起こるのは、ギタリストというのが、ミュージシャンのなかでもとりわけ「もののけ」に取り憑かれやすい体質を備えているからである。そのシャーマン性がギタリストの特権の淵源でもある。
RCサクセションの仲井戸麗市くんというギタリストが前に何かのインタビューで話していたことがあるけれど、仲井戸くんにいわせると、日比谷野音で、夏の夕方、昼の熱気をさますような夕風が吹く中、ステージに出て「クイーーーーーン」と弦を鳴らすときのギタリストの快感は筆舌に尽くしがたいものであるそうだ。
私はギターなんか弾けないけれど、この陶酔感はかなりよく想像できる。おそらくそれは宗教的な「トランス」状態に近いものであろう。
それに比べると、ドラムやキイボードの演奏者が白目を剥いて陶酔しているという姿は想像しにくい。
たとえば、石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』の「ドラム合戦」とラルフ・マッチオの『クロスロード』の「ギター合戦」を見比べると(この映画を両方見ているという人はほとんどいないであろうが)ギタリストの技量というのが、テクニックの問題ではなく「憑依」能力であるということがよくわかる。
裕ちゃんはドラムの技術的な勝負でおのれに利がないと察知するや、ステイックを捨て「おいらはドラマー」と歌い出すという意表を衝く手で、一気に勝負を決める。
裕ちゃんはいっときも「裕ちゃん」であることをやめないし、彼が勝利するのは楽器を捨てて、自分の「個人的」魅力を観客にアピールするときである。
一方、ラルフ・マッチオはモーツアルトと伝説的なブルース・ギタリスト、ロバート・ジョンソンに同時に「憑依」され、彼個人の個性も技術も越えた神懸かり的な演奏をして勝負を制するのである。(「モーツアルトとブルース・ギタリストに同時に憑依された状態」というのがどういうものかに興味がある方はぜひこの映画をごらんください。)
ことほどさように、ギターというのは一種「非人称的」な楽器なのである。
どうもギター・プレイの神髄は、プレイヤーが「楽器の精霊」とでもいうべきものの訪れを受けて、「私が弦を弾いている」状態を去り、ついに「私をの身体を媒介にして弦がひとりでに鳴り出す」というような状態を成就することにあるように思われる。
ではいったいなぜ、とりわけギターという楽器において演奏者の憑依がひんぱんに起こるのであろうか。
これが本日の主題である。ながい「枕」であった。
考えてみれば、ギターというのは奇怪な楽器である。
木製の胴に金属や樹脂製の弦を張り、それを弾いて音を出すのである。調音はむずかしいし、衝撃にも、湿度にも、熱にも、弱い。よい音を出すためには指から血がでるほどの練習が必要である。
もっと安価で、丈夫で、音の狂いもないし、演奏も容易な電気楽器がさまざま揃っているというのに、いまだに音楽少年たちのギターへの偏愛に変化のきざしは見えない。これはかなり不思議なことだ。
さて、ここからが問題である。
「木部に弦を張り、それをはじいて音を出す」という原理的メカニズムにおいて、ギターはあるものに酷似している。それは何でしょう。
答は「弓」である。
実は「弓」は射手を高揚させ、トランスさせるような呪術的な力をもっているのである。では、なぜ弓がとりわけ呪術的な武具であったのか。
ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルは東北帝国大学で哲学を講じているとき、縁あって、希代の弓の名手阿波研造師範のもとで弓術の修行を始めた。大正年間のことである。
岩波文庫に収められているヘリゲルの『日本の弓術』には、彼が信じる近代西欧的な身体訓練方法と、師範の示す日本的「修行」の文化的落差のあいだでとまどうヘリゲルの姿が活写されている。
ヘリゲルは身体訓練というものは、とにもかくにも、身体を意識で完全に統御することをめざすものだと信じていた。意のままに身体を運用すること、身体を「道具」として正確に操作しうること、それが近代的な意味での身体訓練の理想であったからだ。
それに対して阿波師範はまず最初に、「あなたは射において、自分は何をしなければいけないかを考えてはなりません」と教える。
ヘリゲルはこれを聞いて仰天する。「もし『わたし』が射るのでなければ、いったい誰が射るのです」と彼は反問する。
師範はこう答える。
「『それ』が射るのです。」
ヘリゲルにはその教えの意味がさっぱり分からない。しかしそれでも射の訓練は続ける。そして試行錯誤の数年ののち、ある日、ヘリゲルがなにげなく放った一矢にむかって師範は深く一礼し、「いましがた『それ』が射ました」と告げる。歓喜する弟子をたしなめて師範は教える。「いまの射にあなたは何の責任もないのです。あの矢は熟した果実が落ちるようにあなたから放たれたからです。」
こうした経験をへて、ヘリゲルはある種の持続的で集中的な身体訓練ののち、身体は「わたし」の統御に属さない超常的な運動能力(師範が「それ」と呼ぶもの)を発動しうることを学び知る。
「それ」の威力が個人の技量をはるかに超えたものであることを示すために師範は一夜ヘリゲルを道場に招き、暗闇の中で的に向かって二矢を放ってみせる。ヘリゲルが的を見ると、はじめの矢は的の中央に的中し、第二の矢は、最初の矢を断ち割って的中していた。このような離れ業は個人的努力をいくら積み上げても決して達成できるものではない。弓に「神霊」が宿るときのみ、かかる「神懸かり」的なパフォーマンスは可能なのである。
弓に威霊が宿るという信仰はむろん阿波師範の独創ではない。古来、日本には弓矢に神霊が宿り、それが狩猟能力を飛躍的に高めるという信仰が存在した。民俗学者、国文学者である折口信夫によると、古代人は狩猟の能力をもたらす「さち」と呼ばれる神霊を信仰していた。「さち」が憑依した狩人は超人的な狩猟能力を発揮する。古語には「さつ弓」なる言葉があるが、これは「弓」そのものに「さち」が憑依するという思考があったことを示している、と折口は書いている。
弓弦が激しく唸るとき、古代人はそれを「さちなるたましいの発動」と聴いた。弓の震動音は、それがもたらすはずの、豊かな獲物の期待と不可分だったのである。
おそらく私たちの身体の太古的な層には弓弦のうなりを、畏怖と期待のまじった感情で聞いた古代人の記憶がいまだにわだかまっている。
木製の胴に弦を張り、それをはじいて震動音を発するという作動原理において、ギターは現代における弓である。それゆえギターは現代において、かつての弓の代わりとなる破魔除霊の呪具たりえるのである。
その震動とともに神霊が到来し、呪具を操作するものに憑依する。すると彼は超常的な技巧を発揮する。古代においてその技巧は豊かな獲物をもたらした。現代においては音楽マーケットにおけるマス・セールスをもたらすだろう。しかし、ギターの魅惑はそのような計量可能な価値で言い尽くされるものではない。
さきに例に挙げたジミー・ヘンドリックスの伝説的なギター・プレイは、楽器の演奏というよりはむしろシャーマンが呪具をあやつるのに似ている。彼は旋律やリズムを無視して、ひたすら弦を震動させること、その震動をあたう限り引き伸ばすことに固執した。(仲井戸麗市くんがギターの音をメロディではなく、「クイーーーーーーン」という震動音で擬音化したことを思い出してほしい。)
ジミー・ヘンドリックスは歯で弦をひいたことさえある。みなさんも自分でギターの弦を歯ではじいてみれば分かると思うが(別に試してみなくてもいいですよ)、あきらかに歯で弾いた方が、指で弾くより、震動はダイレクトの身体の内奥に伝わる。
『ウッド・ストック』でザ・フーのギタリスト、ピート・タウンゼントは演奏を終えたのち、ギターをステージで叩き割る。楽器がもとの形態をとどめぬ破片と化したあとも、電気的に増幅された弦のうなりだけは舞台に残る。
この場面は私たちにある種の戦慄を与える。それは呪具から解き放たれた異形の「なにものか」が、むきだしのまま出現してくるのを、私たちが恐怖と恍惚のうちにそのとき感知するからなのである。
2010年4月11日日曜日
田中均の論理と とほほ理論
陰謀説は父権的だと思う。
以下 内田さんのブログより引用
経験的に熟知されていることであるが、私たちは自分が「無力」である事実を「自分が弱くて、バカであること」の結果であると考えようとしない。(だっていやじゃないですか。)だから、この「無力」を私よりはるかに強力なものによる「外部からの禁止」の結果だと解釈しようとする。
この「合法的な自己認識を外部から禁止する存在」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。
おのれが無力であるという事実から、ただちに「外部に私には理解できないロジックをもって世界を整序している強力な上位者がいる」という結論を導くことはできない。そこには論理的な「架橋」が必要だ。「父」とか「神」とか「鬼」とかいうのは、要するにそのような論理的な架橋機能のことである。
「強力な悪が存在し、それが『私』の自己実現や自己解放を阻害している」という話型は、それゆえ「父」権制社会に固有のものであり、「父」権制社会の再生産プロセスそのものである。このような話型に依存している限り、それがいかなるイデオロギー的な意匠をまとっていようとも、(マルクス主義であろうと、フェミニズムであろうと、自由主義史観であろうと)それは「父権制イデオロギー」であると私は思う。
私はこのような同型的イデオロギーの終わりのない反復にはもううんざりしている。
ここから逃れる道があるのかどうか、私には分からない。とりあえず私は「私は無力でバカであるが、それは私が無垢であるからではなく、また私の外部に『父』がいて私が力をもつことを禁止しているからでもなく、単に私が無力でバカであるからである」という情けない自己認識から出発しようと思っている。
弱さを根拠にしつつ、それを決してパセティックな語法では語らないという決意を私は「とほほ」と擬音化する。
「とほほ主義」はイデオロギーではない。それはイデオロギーが腰砕けになった瞬間の情けない浮遊感のうちに、軽いめまいに似たものを感じてしまう困った精神のあり方のことである。
以下 内田さんのブログより引用
経験的に熟知されていることであるが、私たちは自分が「無力」である事実を「自分が弱くて、バカであること」の結果であると考えようとしない。(だっていやじゃないですか。)だから、この「無力」を私よりはるかに強力なものによる「外部からの禁止」の結果だと解釈しようとする。
この「合法的な自己認識を外部から禁止する存在」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。
おのれが無力であるという事実から、ただちに「外部に私には理解できないロジックをもって世界を整序している強力な上位者がいる」という結論を導くことはできない。そこには論理的な「架橋」が必要だ。「父」とか「神」とか「鬼」とかいうのは、要するにそのような論理的な架橋機能のことである。
「強力な悪が存在し、それが『私』の自己実現や自己解放を阻害している」という話型は、それゆえ「父」権制社会に固有のものであり、「父」権制社会の再生産プロセスそのものである。このような話型に依存している限り、それがいかなるイデオロギー的な意匠をまとっていようとも、(マルクス主義であろうと、フェミニズムであろうと、自由主義史観であろうと)それは「父権制イデオロギー」であると私は思う。
私はこのような同型的イデオロギーの終わりのない反復にはもううんざりしている。
ここから逃れる道があるのかどうか、私には分からない。とりあえず私は「私は無力でバカであるが、それは私が無垢であるからではなく、また私の外部に『父』がいて私が力をもつことを禁止しているからでもなく、単に私が無力でバカであるからである」という情けない自己認識から出発しようと思っている。
弱さを根拠にしつつ、それを決してパセティックな語法では語らないという決意を私は「とほほ」と擬音化する。
「とほほ主義」はイデオロギーではない。それはイデオロギーが腰砕けになった瞬間の情けない浮遊感のうちに、軽いめまいに似たものを感じてしまう困った精神のあり方のことである。
2010年4月1日木曜日
日本はどこへ行くのか
先週、毎日新聞の論説委員の広岩さんが見えて、「平和を語る」というお題で、しばらくお話をした。
広岩さんは何年か前に私が毎日新聞の紙面批評を頼まれたときに、司会をしてくれた人である。
たいへん冷静で目配りのゆきとどいたジャーナリスだった。
それからは毎日新聞で広岩さんの署名記事があると、まじめに読むようにしている。
お会いしたとき、広岩さんは日本の言論の急速な「右傾化」にずいぶん心を痛めていた。
とくに一部で突出している核武装論と、それに対する若者たちの無警戒に危機感を示しておられたので、もっぱら話題はそれに終始した。
先日、テレビの政治討論番組で、あるジャーナリストが、日本に外交力がないのは、軍事の裏付けがないからである。防衛にもっと金をかけなければ、日本は隣国から侮られるばかりであると主張していた。
それは違うと思う。
日本が外交的に国際社会で侮られているのは事実であるが、それは軍事力の裏付けがないからではない。
日本の国防予算は世界第四位である。
日本の上にいるのはアメリカ、ロシア、中国の三国。
「軍事力即外交力」というロジックが成り立つなら、日本はこの三国には侮られても当然だが、それ以外の諸国には侮られてはいないはずである。
しかし、現に侮られている。
国際社会で「日本の外交戦略を拝聴して、ぜひその叡智を掬したい」という態度を保っている国はきわめて少ない。
それは日本が軍事力に劣っているからではない。
国際社会に向けて発信すべきいかなる「ヴィジョン」も有していないからである。
日本が国際社会に向けて述べているのは「愚痴」と「不満」だけである。
たしかに日本にとっては切実な「愚痴」であり、「不満」であろうが、他国にとっては「悪いけど、ひとごと」である。
我が国の国際戦略(などというものはないのだが、あるとして)に対して同意や共感や支援を得ようとするとき、日本は結局はいつも「金をつかませる」という方法しか思いつかない。
利益誘導して「日本を支持すると、こんな『いいこと』がありますよ」という「にんじん」を示すことでしか、国際社会における支持者を作ることができない。
その「志の低さ」が国際社会の侮りを受けているのである。
だから、日本が金をばらまけばばらまくほど日本に対する侮りは深まる。
湾岸戦争のときに、日本は巨額の戦費を供出した。
これに対して国際社会は感謝を示さなかった。
これをわが国の政治家やジャーナリストは「人的貢献をしないで、金だけ出したからバカにされたのだ。次からは日本人の血を流さなければダメだ」と言い立てた。
いわゆる「国際社会の笑いもの」論である。
多国籍軍はイラクに侵略されたクウェートを支援するために軍事介入した。クウェート政府は戦争終了後に、支援各国に感謝決議を出した。そのときに、日本の名はそこになかった。
しかし、その理由は「国際社会の笑いもの」論者たちが言うように「金しか出さなかった」からではない。
日本はたくさんの戦費を出したのだ。
ただ、出した金のほとんどをアメリカが持って行ってしまったのである。
当初援助額である90億ドル(1兆2,000 億円)のうち、クウェートに渡ったのは6億3千万円であった。あとはアメリカが持っていった。
国際社会は、「国際貢献」という名分でアメリカに「転がされた」日本の愚鈍を笑ったのである。
その反省がイラク派兵における「人的貢献」である。
今回の派兵に対してはイラク政府から感謝決議をもらうことが日本政府の年来の悲願なのである。
しかし、「感謝決議をもらうために派兵する国」を国際社会が尊敬のまなざしで見上げるであろうか。
私は懐疑的である。
国際社会が評価するのは「これからの世界はどうあるべきか」について、国益の異なる諸国を投企的に統合するような「大きな物語」を語ることのできる政治思想と行動だけである。
どれほど主観的には切実であろうとも、「愚痴」や「不満」や「見返り」のような「せこい」話しかしない国が、そのスーパーリアルな態度によって諸国からの敬意を得ることはありえない。
敬意が得られない国は、どんな場合も、指導力を発揮することはできない。
当たり前のことである。
かつてシンガポールのリ・クワン・ユーやマレーシアのマハティールや台湾の李登輝は小国の指導者ながら、繰り返し国際社会からその政治的意見を求められ、世界のメディアはその発言を報道した。
それはシンガポールやマレーシアンや台湾が中国に比肩するような軍事大国だったからではないし、経済大国だったからでもない。
彼らがそれぞれに「あるべき東アジアのヴィジョン」を語ったからである。
国際社会が敬意を示すのは一国の軍事力ではなく、その軍事力を導く世界戦略の「大きさ」に対してである。
もし、軍事力に裏付けられた外交だけが他国からの敬意を担保するというロジックがほんとうなら、日本は世界で中国の次に尊敬され、どのような国際会議でも「アメリカ、ロシア、中国」の次に発言を求められてしかるべきであり、イギリス、フランス、ドイツよりも「威信ランキング」において上位に置かれてよいはずである。
だが、そうなっていない。
これはどういうわけなのか。
誰か説明してくれるのだろうか。
「核武装していないから」という遁辞をおそらくはご用意されているのであろう。
防衛費世界四位といっても、核がないんだから、そんなのは無意味な数字だと言う人がいる。
あるいは防衛費のほとんどは人件費で消えてしまい、軍備には充当されていないからそんなのは無意味な数字だとも言われる。
なるほど。
防衛次官の横領分や商社へのキックバック(そのせいで武器購入費は非常に割高になっている)もむろん軍備の充実には資するところがない。これも防衛費からは控除した方がいいだろう。
ということは私たちが知っている防衛費というのはおおかた「無意味な数字」だということになる。
で、その場合、「無意味な数字」が「多い」とか「少ない」ということを言えるのはどのような数値的根拠によるのであろうか。
核武装したとしよう。
アメリカとロシアと中国の反対を押し切って、核武装した。
さて、その上で日本はいったい何を世界に対して告げようというのであろうか。
どのような「あるべき世界のヴィジョン」を語るつもりなのであろうか。
「これで北朝鮮のミサイルがきても報復できるぞ」「中国が東シナ海のガス田に手を出しても韓国が竹島を占領しても報復するぞ」と世界に向けて誇らしげにカミングアウトしたいという気持ちはわからないでもない。
けれども、それを聴いて「ああ、すばらしい。『やられたら、やりかえせ』これこそ世界が待望していた21世紀の国際社会を指導する理念だ」と思ってくれる人が世界に何人いると思っているのか。
それによって日本の政治家たちが世界のメディアから注目され、その識見について繰り返し意見を徴され、その指導力が求められるということが起こると、彼らは本気で思っているのであろうか。
防衛費を倍増しようと、核武装しようと、ミサイル攻撃に即応するシステムを構築しようと、それによって国際社会からの敬意を獲得することはできない。
獲得できるのは、「何をするかわからない危険きわまりない国に対する遠慮がちな態度」だけである。
それはまさに現在北朝鮮が享受しているところの「利権」である。
日本を北朝鮮化すること、彼らがそれを夢見る気持ちはわからないでもない。
「遠慮がちな態度」だって「侮りがちな態度」よりはましだと思う気持ちはわからないでもない。
でも、自分たちがそのような法外な夢を抱いていることをご本人たちは意識していない。
問題はそこだ
広岩さんは何年か前に私が毎日新聞の紙面批評を頼まれたときに、司会をしてくれた人である。
たいへん冷静で目配りのゆきとどいたジャーナリスだった。
それからは毎日新聞で広岩さんの署名記事があると、まじめに読むようにしている。
お会いしたとき、広岩さんは日本の言論の急速な「右傾化」にずいぶん心を痛めていた。
とくに一部で突出している核武装論と、それに対する若者たちの無警戒に危機感を示しておられたので、もっぱら話題はそれに終始した。
先日、テレビの政治討論番組で、あるジャーナリストが、日本に外交力がないのは、軍事の裏付けがないからである。防衛にもっと金をかけなければ、日本は隣国から侮られるばかりであると主張していた。
それは違うと思う。
日本が外交的に国際社会で侮られているのは事実であるが、それは軍事力の裏付けがないからではない。
日本の国防予算は世界第四位である。
日本の上にいるのはアメリカ、ロシア、中国の三国。
「軍事力即外交力」というロジックが成り立つなら、日本はこの三国には侮られても当然だが、それ以外の諸国には侮られてはいないはずである。
しかし、現に侮られている。
国際社会で「日本の外交戦略を拝聴して、ぜひその叡智を掬したい」という態度を保っている国はきわめて少ない。
それは日本が軍事力に劣っているからではない。
国際社会に向けて発信すべきいかなる「ヴィジョン」も有していないからである。
日本が国際社会に向けて述べているのは「愚痴」と「不満」だけである。
たしかに日本にとっては切実な「愚痴」であり、「不満」であろうが、他国にとっては「悪いけど、ひとごと」である。
我が国の国際戦略(などというものはないのだが、あるとして)に対して同意や共感や支援を得ようとするとき、日本は結局はいつも「金をつかませる」という方法しか思いつかない。
利益誘導して「日本を支持すると、こんな『いいこと』がありますよ」という「にんじん」を示すことでしか、国際社会における支持者を作ることができない。
その「志の低さ」が国際社会の侮りを受けているのである。
だから、日本が金をばらまけばばらまくほど日本に対する侮りは深まる。
湾岸戦争のときに、日本は巨額の戦費を供出した。
これに対して国際社会は感謝を示さなかった。
これをわが国の政治家やジャーナリストは「人的貢献をしないで、金だけ出したからバカにされたのだ。次からは日本人の血を流さなければダメだ」と言い立てた。
いわゆる「国際社会の笑いもの」論である。
多国籍軍はイラクに侵略されたクウェートを支援するために軍事介入した。クウェート政府は戦争終了後に、支援各国に感謝決議を出した。そのときに、日本の名はそこになかった。
しかし、その理由は「国際社会の笑いもの」論者たちが言うように「金しか出さなかった」からではない。
日本はたくさんの戦費を出したのだ。
ただ、出した金のほとんどをアメリカが持って行ってしまったのである。
当初援助額である90億ドル(1兆2,000 億円)のうち、クウェートに渡ったのは6億3千万円であった。あとはアメリカが持っていった。
国際社会は、「国際貢献」という名分でアメリカに「転がされた」日本の愚鈍を笑ったのである。
その反省がイラク派兵における「人的貢献」である。
今回の派兵に対してはイラク政府から感謝決議をもらうことが日本政府の年来の悲願なのである。
しかし、「感謝決議をもらうために派兵する国」を国際社会が尊敬のまなざしで見上げるであろうか。
私は懐疑的である。
国際社会が評価するのは「これからの世界はどうあるべきか」について、国益の異なる諸国を投企的に統合するような「大きな物語」を語ることのできる政治思想と行動だけである。
どれほど主観的には切実であろうとも、「愚痴」や「不満」や「見返り」のような「せこい」話しかしない国が、そのスーパーリアルな態度によって諸国からの敬意を得ることはありえない。
敬意が得られない国は、どんな場合も、指導力を発揮することはできない。
当たり前のことである。
かつてシンガポールのリ・クワン・ユーやマレーシアのマハティールや台湾の李登輝は小国の指導者ながら、繰り返し国際社会からその政治的意見を求められ、世界のメディアはその発言を報道した。
それはシンガポールやマレーシアンや台湾が中国に比肩するような軍事大国だったからではないし、経済大国だったからでもない。
彼らがそれぞれに「あるべき東アジアのヴィジョン」を語ったからである。
国際社会が敬意を示すのは一国の軍事力ではなく、その軍事力を導く世界戦略の「大きさ」に対してである。
もし、軍事力に裏付けられた外交だけが他国からの敬意を担保するというロジックがほんとうなら、日本は世界で中国の次に尊敬され、どのような国際会議でも「アメリカ、ロシア、中国」の次に発言を求められてしかるべきであり、イギリス、フランス、ドイツよりも「威信ランキング」において上位に置かれてよいはずである。
だが、そうなっていない。
これはどういうわけなのか。
誰か説明してくれるのだろうか。
「核武装していないから」という遁辞をおそらくはご用意されているのであろう。
防衛費世界四位といっても、核がないんだから、そんなのは無意味な数字だと言う人がいる。
あるいは防衛費のほとんどは人件費で消えてしまい、軍備には充当されていないからそんなのは無意味な数字だとも言われる。
なるほど。
防衛次官の横領分や商社へのキックバック(そのせいで武器購入費は非常に割高になっている)もむろん軍備の充実には資するところがない。これも防衛費からは控除した方がいいだろう。
ということは私たちが知っている防衛費というのはおおかた「無意味な数字」だということになる。
で、その場合、「無意味な数字」が「多い」とか「少ない」ということを言えるのはどのような数値的根拠によるのであろうか。
核武装したとしよう。
アメリカとロシアと中国の反対を押し切って、核武装した。
さて、その上で日本はいったい何を世界に対して告げようというのであろうか。
どのような「あるべき世界のヴィジョン」を語るつもりなのであろうか。
「これで北朝鮮のミサイルがきても報復できるぞ」「中国が東シナ海のガス田に手を出しても韓国が竹島を占領しても報復するぞ」と世界に向けて誇らしげにカミングアウトしたいという気持ちはわからないでもない。
けれども、それを聴いて「ああ、すばらしい。『やられたら、やりかえせ』これこそ世界が待望していた21世紀の国際社会を指導する理念だ」と思ってくれる人が世界に何人いると思っているのか。
それによって日本の政治家たちが世界のメディアから注目され、その識見について繰り返し意見を徴され、その指導力が求められるということが起こると、彼らは本気で思っているのであろうか。
防衛費を倍増しようと、核武装しようと、ミサイル攻撃に即応するシステムを構築しようと、それによって国際社会からの敬意を獲得することはできない。
獲得できるのは、「何をするかわからない危険きわまりない国に対する遠慮がちな態度」だけである。
それはまさに現在北朝鮮が享受しているところの「利権」である。
日本を北朝鮮化すること、彼らがそれを夢見る気持ちはわからないでもない。
「遠慮がちな態度」だって「侮りがちな態度」よりはましだと思う気持ちはわからないでもない。
でも、自分たちがそのような法外な夢を抱いていることをご本人たちは意識していない。
問題はそこだ
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